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法律コラム

2024年10月

また仕事とは無関係の話

昨年、村上春樹の「街とその不確かな壁」を読みました。この本は2023年に刊行された本で、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年)の続編という位置づけです。
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を最初に呼んだのは、大学生の時で、今でも最も好きな村上作品のひとつです。この本は、「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の2つの部分から成り立っています。2つの物語は交互に進行し、最後に両者の関係が解き明かされるという構造です。それぞれ示唆に富む内容になっており、とても考えさせられます(以下、ネタバレ多数です)。
「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公は、最終的に自ら望まない形でその意識を失うという運命に陥ります。ただ、それは決して不幸なものなのではなく、自ら構築した自己完結した意識世界に入り込むことを意味しており、ある意味では幸福なことでもあります。そこには激しい喜怒哀楽やエゴのもたらす苦しみはありません。しかし、主人公は、今のままの自分でありたいと痛切に感じます。「こんな人生でも、それを抱きしめて生き続けていたい」と煩悶するのです。年を取って多くの輝く可能性を失い、他人から見たらパッとしない人生であっても、それこそが自分の人生であり、そこには固有の喜びがあるので、それを大事に今後も生き続けたいと感じて苦しむのです。ここに描かれているのは私たち自身の問題でもあります。とても心に残ります。
「世界の終わり」の主人公は、先ほど述べた自己完結した意識世界で生活しており、平常心を得られる見返りに「影」と切り離され、次第に人間らしい感情を失いつつあります。それはある意味では幸福なことですが不自然なことでもあり、主人公は元の世界に戻るべきか否か悩みます。しかし、最終的に自意識の世界に留まることを選択します。それは、ある若い女性と一緒にいたいと強く感じてのことです。この女性も「影」と切り離されて心を失ってはいるものの、その片鱗なようなものがどこか感じられます。そして、主人公は特殊な仕事をする中で、その女性の心の断片を感じることになります。その温もりをかすかに感じ、彼女とともにありたいと強く願うのです。その時、ずっと忘れていた「音楽」が彼の口をつきます。それはダニー・ボーイの美しいメロディ-です。主人公の心は柔らかさを取り戻し、目からは涙が溢れます。ここを読む度に、僕はビル・エヴァンスの演奏する美しいダニー・ボーイの演奏を思い出し、グッときてしまいます。ここには人が人を求めるということの大切な意味(のうちのひとつ)が描かれているように感じられます。それもまた私たち自身の問題です。
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」には、そのほかにも沢山の印象深いシーンが描かれています。それは滋養となって私の一部を形成し、心を豊かにしてくれているように感じています。
小説でも音楽でも良い作品に出会うと励まされます。
それは時を超え、場所も越えて我々に働きかけてきます。
どうしてそんなことができるんでしょうね。

他山の石

今回は少しだけ仕事に関係するお話を。
唐突ですが、我々の世界も随分と変わりました。私のころと比較すると、司法試験の合格者は倍以上になりました。一時は3倍近くになっていたこともあります。そこまで一気に人数が増えてしまうと、人があぶれてしまって、就職先に困ったり、資格は取れても仕事がなかったりといった人が出てきてしまいました。合格してもうま味が少ないということで、司法試験自体の人気も無くなってしまいました。
不祥事も以前より目に付くようになりました。宜しくない仕事をしている弁護士の存在を日常的に感じるようになり、「弁護士倫理」ということが頭をよぎる機会が増えました。情けない話ですが。世間の弁護士を見る目も厳しいものに変わってきました。
少し話は変わりますが、私のように田舎の弁護士会にいると、ある程度の経験を積むと、弁護士に対する苦情に携わることになります。
一番最初が副会長在任時の「市民窓口」対応です。弁護士会には、日々、弁護士に関する様々なクレームが持ち込まれるのですが、その初動対応をするのが副会長の仕事の1つになっています。面談してお話しを聞いたりして、しかるべき処理をしていきますが、なかなかに苦労の多い仕事です。ただ、そうした仕事をしていると、何が人々の不満や強い怒りを生んでいるのかが理解できるようになってきます。それは「横柄な態度」、「不誠実な連絡/対応(報告しない/電話に出ないなど)」といった事柄であることが多いようです。「弁護士だと思って、何様のつもりだ」とお怒りなのであって、社会人としてのきちんとしたマナーが弁護士にも求められているのです。当たり前のことですが、対応していて身の引き締まる思いがします。
それとは別に、弁護士に対する懲戒処分を求める申立(懲戒申立)が弁護士会になされることもあります。申立があると、まず「綱紀委員会」というところに案件が回されます。そこでまず調査・審議して、懲戒委員会の審査を求めるか決定します。私も数年前からその委員を仰せつかっています。内容にわたるお話しは勿論一切できませんが、ここでもなかなかストロングタイプの案件を扱っています。それなりの数を扱っていると、何がトラブルを生んでいるのか、避けなければならない事柄は何かといったことが段々と理解できるようになります。そして、不満を抱かれやすい弁護士というのが、実はある程度顔ぶれが決まっていることや、ある特定の個人的資質が人々の怒りを招いていることに気づかされることになります。身の引き締まる思いがします。
余談ながら(ここまで全て余談ですが)、我々の仕事は仕事それ自体から学ぶことの多い、いささか特殊な仕事でもあります。人々から話しを聞いていると、何がトラブルのもとになるか、それが経験的に手に取るように分かってくるからです。例えば、日常的に離婚案件を扱ううちに、「ここが奥さんの怒りポイントだな」とか肌身に染みて理解できるようになります。同じミスでも、これは致命的だなとか分かってきます。
そうしたいろんな場面で、「他山の石」という言葉が頭に浮かびます。
油断していると明日は我が身だぞと耳元でささやく声が聞こえます。
こんなこと書いてどうするんだ。

夏の思い出

50数年も生きてくると、季節毎に色んな思い出が出来ますね。読まれる方には全く無意味と承知してはいるのですが、ほかに書くことも思いつかないので、ご容赦下さい。
暑い盛り、「盛夏」ということで最初に思い出すのは、何といっても司法試験の受験時代です。一番暑い時期に最も困難な論文試験がありました。私は京都会場で受験していましたが、京大は暑かった(同志社は涼しかった)。皆すごく気合いが入っていて、気圧される感じでした。あのころは実によく勉強した。
次に思い出すのは、実務に出て1年目の夏で、当時は神戸地検の刑事部にいました。社会人1年目は皆同じだと思うのですが、私も慣れない仕事が辛くて、毎日逃げ出したい思いでした。周囲にも恵まれて何とか乗り切りましたが、いや~辛かった。
その次というと検事を辞めた年の夏でしょうか。挫折感もあってなかなかに辛い暑い夏でした。ただ、とりあえず行き先はあったので、そんなに焦らず、のんびり暮らしていました。毎日夕方になると妻とぶらぶら散歩に行ったり、エアポケットのような時期でした。お金の心配はありましたが、今思うと悪くなかった。まだ夫婦二人で若かったですし。
弁護士になり、特に子どもが生まれてからは、妻の母方の実家の大分に毎年帰省(旅行)していたのが夏の一番の思い出です。私は両親とも大阪の出で、いわゆる「田舎」というもののない人間なので、とても新鮮な経験でした。夏休みの開放感も手伝って、そこには何とも言えない喜びがあったように思います。そのころは妻の祖母がまだ存命で、息子を「ひいばあちゃん」に年に1度会わせる良い機会であり、息子にとっても人生の宝になったと思います。今でも九州と聞くだけで、郷愁のようなものを感じるくらいです。
そんな風にして、夏には辛い思い出や楽しい思い出が沢山ありますが、後で振り返った時、今年(2024年)の夏はどんな風に感じるんでしょうね。いまのところ、今年の夏は一生懸命自転車に乗って大汗を流しており、家族旅行では初めて岩手県に行きました。中尊寺が立派なことや、盛岡が思っていたよりも遙かに都会であることに驚きました(残念ながらレコードの出物はありませんでしたが)。遠野も雰囲気があってなかなか良かった。まあ平凡な日々ではありますが、それなりに良い思い出になっていそうな気がしています。でも、平凡と思える日々を過ごせることが、やっぱり一番ですよね。

年齢を重ねて感じること。

当然のことですが、生きていると否応なく年を取り、年を取るにしたがって様々な物事が変化します。細かい字が見えづらくなり、太りやすく痩せにくい体質になります。
ただ、それなりに悪くない面もあります。
ひとつは、経験を積むことで、若いころよりも色んなことが実感をもって理解できるようになります。「人の気持ちが分かる」ようになります。それは、私のような職業にとっては望ましいことです。もちろん価値観も変わってきます。色々な経験をし、多様な価値観と出会い、絶え間なく影響を受けて、独りよがりで硬直気味な価値観は、試練を受けて修正を余儀なくされます。それに伴って自分に対する認識や評価も変化し、現実の自分に適合したものへと変容を遂げていきます。そして、精神的にはタフになり、若いころほど簡単にへこたれなくなります。「あつかましく」なり、文句も言えるようになります。
きっと皆さん似たり寄ったりではないでしょうか。
年を取ってきて、率直に思うことは、年長者(おじいさん、おばあさん)はすごいなということです。若い頃は、当たり前に年をとり、歳月の経過によって年長者になるだけで、別に大したこととも思っていませんでした(不遜ですね)。ただ、年を取ること自体が決して容易なことではないと身に染みて分かってくると、年を取るということ、それ自体がひとつの達成のように感じられてきます。
昔は杖をついたり手押し車を押して歩いている年配の方を見かけても、ネガティブな印象しか受けませんでしたが、自分の親が年を取り体が不自由になって自由に出歩くことができなくなると、そうして自力で動くことがてきるというだけで、それはとても素晴らしい、有り難いことであって、祝福すべきことであると感じられるようになりました。
意識していても、意識していなくても、どんどん自分の立ち位置が変わっていく。「こっち」にいるつもりが、いつの間にか「あっち」にスライドしていく。
当たり前ですが、初めての経験で、何とも不思議な感じのするものです。
少しは賢くなっていればよいのですが。

等身大と言えば聞こえは良いですが。

ここ数年父親に譲ってもらった1300ccの小型車に乗っています。それまでに乗っていた車が突然故障し、半導体不足で新車も手に入らなかったので、やむなく免許を返納する予定になっていた父親の車を譲り受けました。仕事柄、人目が気になって少し気恥ずかしい思いをすることはありますが(みんな実に良い車に乗っていますね)、実用という面では何の不足もありません。燃費も良いし、基本一人で乗っているので、これで必要にして十分です。父親が買った最後の車になるので、その分最後まで大切に乗ってやろうと思っています。そろそろ初年度登録から10年くらいですが、車とお互いに労りあいつつ、ボチボチやっていこうと思っています。
物を長く大切に使うと言えば聞こえは良いですが、どうも私は貧乏性なようで、自分のためにお金を使うのが下手くそです。趣味の物を買い換えるのもとても時間がかかります。
そんな私ではありますが、この度、前々から欲しかったさる有名なメーカーのカーボンのロードバイクを手に入れました。中古ではありますが、年式もとても新しく、ほぼ未使用と言って差し支えない状態の良いものが、かなりリーズナブルな価格で見つかったので、思い切って購入しました。ということで、現在、喜びをかみしめつつ乗っています。でも、買い換えるのに結局8年もかかりました。
そういえば、スピーカーも買い換えるのに10年以上かかりました。今使っているスピーカーもエントリーグレードに近いクラスのものですが、「悪くないな」と自己満足に浸りつつ日々楽しんでいます。ただ、何時かは30㎝以上のウーファーのJBLを手に入れたい、それなりの音量でジャズが聴きたいというのが、私のささやかな野望です。先日、東京出張の際、さる有名なジャズ喫茶でJBLのスピーカーで大音量のジャズを聴きましたが、実に堪えられませんでした。あそこまで無理なのは当然としても、もう少し良い音で聴きたい。でもそうなると、スピーカーに合わせてアンプもプレーヤーも相応の物に買い換える必要が出てくる。そんなことをしているうちに沼に嵌まる。困った(困ってない)。
ここまで書いてきて何ですが、我ながら実に小市民的ですね。世の人が「弁護士」に抱くイメージとは相当かけ離れている気がする。
そう言えば、昔「何時かはクラウン」とかいうキャッチコピーがありましたね。まあ私には関係ないですが。多分。知らんけど。

今回は少し真面目な話です。

先日、読売新聞が元特捜検事へのインタビューを中心にした記事を組んでおり、興味深く読ませてもらいました。そこで書かれているのは、昔私が実地に経験したことでもあり、色々と考えさせられました。ただ、記事自体は平板な「ありきたり」の内容で、少し喰い足りないというか、あまり本質に迫れていない印象を持ちました。
昔のことを思い出して強く感じるのは、やはり検察も警察と同様に「権力の塊」だったなということです。こんな話をするのも何なのですが、私が前職にあって(そこを去って)最も強く感じたのは、「権力の持つ怖さ」であり、そこで自分の倫理観・価値観を保ち続けることの難しさでした。弁護士になった時、ようやく良心との葛藤から免れられると肩の荷がおりる思いがしたことを覚えています。
私が感じたのは、別の形で言うならば、「弱い人間は権力の側に入ってはならない」ということでした。弱ければ飲み込まれてしまいます。それは本人を含めて百害あって一利なしです。そうではなく、権力というものに自覚的で、きちんとした価値観に基づいて、それを謙抑的・抑制的に行使できることこそが、仕事ができるとか(記事の内容に沿っていうなら自白が取れて優秀であるとの評価を受けるとか)、組織に忠実であるとか、そういったことよりも、公益の代表者として公訴権を行使する検察官にとって、ずっと重要だと私は思います。
昔、同期のある男性検事が、「俺は、被疑者の言っていること以外は絶対に調書に取らない」と話してくれたことがありました。「何を当たり前のことを」と思われるかも知れませんが、これは現場にいてはなかなか言えない言葉です。その言葉を聞いて私は「ハッ」としましたし、そのように言い切れる彼のことを尊敬しました。そして自らを恥じました。
そういったことを記事を読んでいて色々と思い出しました。
また、現在の自分を省みて、恵まれているとも感じました。ちょっと特殊な仕事ですし、特有のストレスもありますが、そういった面で特に疑問を感じることなく仕事ができているのは、何ともありがたいことです。
昔のことを思い出して柄にもない話をしてしまいました。
ここで終わりにしたいと思います。
I’m getting sentimental over you.

旅行は楽しいですね。

先日、2泊3日で長崎まで家族旅行に行ってきました。前に行ったのは結婚して間もないころでしたので、かれこれ20数年前のことになります。当時と比べ、駅前がとても立派になり、観光地の整備も進んでいました。それにしても、日本中どこに行っても外国人観光客が多くて驚きますね。
あいにくの雨でしたが、とても充実した楽しい旅行になりました。一番印象に残ったのは大浦天主堂と浦上天主堂で、そのほか中華街でご飯も食べましたし、出島やグラバー園、孔子廟、平和記念公園も見学することができました。隈研吾設計の長崎県美術館にも行くことができました。やり残したのは、軍艦島を見学することと(雨で見学ツアーが中止。ただ、その代わりに市内にある軍艦島デジタルミュージアムに行きました)、ロープウェイで稲佐山に登ることくらいでしょうか(雨で視界不良のため断念)。軍艦島ツアーのために取っておいた時間は、レンタカーを借りて波佐見まで焼き物を見に行ったり、その帰途嬉野温泉に寄ったりして色々と楽しみました。情緒ある市電にもたっぷりと乗ることができましたし、何とも不思議な乗り継ぎの西九州新幹線にも乗ることができました。いやはや何ともよく遊んだ。
次は、公務の東京出張があるので、自費で前泊するなりして、色々楽しんでこようと目論んでいます。四谷のジャズ喫茶、新宿のレコード屋、上野の美術館etc。そう言えば、名古屋でも、札幌でも、仙台でも、横浜でも、神戸でも、旅行や出張にかこつけてレコード屋巡りをしていた。もちろん日頃から京都のレコード屋やネット通販でも色々と買っています。おかげでCDやLPが好き放題に増殖して、その置き場所に頭を悩ませています。宿痾ですかね。
ちゃんと仕事をせねば。

先月と同じような話ですが。

前回のコラムをアップしてから、妻と一緒に女性ミュージシャンの弾き語りライブに行きました。その方(彼女)は、私がまだ資格試験を受けていた20代初めころにデビューし、一時、京都のFM局で番組を持っていました。話が面白く一生懸命聴いていましたが、番組が終了してからは、たまにCDを見かけたら借りたり買ったりする程度で、それほど熱心なファンといったわけでもありませんでした。それより妻の方が彼女のことを気に入っており、折に触れてはCDを聴いていました。
そうして実に30年近くが経過し、色々な事情が重なって彼女のライブを見ることになりました。50人も入れば一杯になるくらいの狭い場所で、満席になっていました。それなりに年配のお客さんが多いようでした。
ステージに姿を見せると彼女は30年分しっかり年を取っており、私が「おっちゃん」になったと同様、きっちり「おばちゃん」になっていました。そして最初の曲が終わって、挨拶混じりのトークになると、「先月57歳になりました。よくぞここまで生き抜いた! 皆さんと乾杯です! その思いで今日はこの曲を一曲目に持ってきました!」などと話し始めました。周りを見ると目頭を押さえている中年の女性がおり、鼻をすするような音が聞こえました。皆同じように感じて生きているんだなと思いました。心が動きました。
彼女は、提供曲で少しブレイクしたことはありましたが、それでも広く一般に名を知られるほどでもなく、その意味では地味なアーティスト人生を歩んできた人でした。しかし、彼女は今でも毎年いくつかの決まった都市で何本かのライブを続けており、そこには熱心なファンが全国から集まって、チケットをソールドアウトにしているようでした。それは、とても見事な達成であり、素直に羨ましい人生だと思いました。それは「音楽の持つ力」をとても強く感じさせられる場面でもありました。見ず知らずの人の心を動かし、涙させることができる、時に時空を超えてそれができるなんて、本当に奇跡のようだと思いました。
こうした豊かな感情体験を通して、皆が前向きで寛容な精神を養うことができればと思います。自己を省みることなく、いたずらに他者に批判的になったり、攻撃的になったりするのではなく。
結局、前回と同じような話になってしまいましたね。

年はとったが。

ここ数年「年をとったな」と感じることが多くなりました。
親が年をとったこともありますし、子どもが成長したこともあります。普段、1人で仕事をしていることが多くて、そんなに感じる機会はありませんが、たまに弁護士会に行くとちょっとしたベテラン扱いを受けたりすることもあって驚きます。
依頼者さんとの関係も当然変わってきました。若いころは、依頼者さんは自分より年上かせいぜい同年代といったところでしたが、今では年下の方も多くなってきました。それも下手すると親子ほど年が離れていたりします。そんな年になったのか。
現在、20代前半の女性(まさに子ども世代)の事件をいくつか手がけていますが、彼女たちは本当にしっかりしていて驚かされます。地に足が付いており、覚悟も出来ていて、大したもんです。自分が同じ年頃だったころのことを思うと、その余りの違いに驚くばかりです。
ただ、レベルこそ違えど、私も、その年頃には自分なりに必死に人生と格闘していました。家に一人籠もって、合格するあてもない困難な試験に黙々と取り組んでいました。それはかなり孤独な作業で、精神的にもきつい時期でした。今ではとてもそんなことはできません。そうした経験は自分にとって糧となり、生きる指針となりました。
その後も色々ありましたが、何とかこれまで無事にやってくることができました。特に誇れるほどのこともありませんでしたが、それなりによく頑張った。そう自分では感じています。「お互いよくここまで頑張ったよな」と同世代と讃え合いたい気分です。
まあ、これからも迷いや苦しみはずっとつきまとうでしょうが、何とかそれをやり過ごして、生きていかなければなりません。いささか気が遠くなりますが、何とかなるのでしょうか。
逆に、若い世代は順繰りに、我々と似たようなことを感じつつ、前に進んでいくのですかね。息子を含めこれからの世代が、自ら力を得て生き抜き、無駄に辛い目に遭うことのありませんように。
GOD BLESS THE CHILD

今年もよろしくお願い致します。

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
新年早々世間では色々と大変なことが続いており、何ともやりきれない思いがしています。どうしてこんなことが起きなければならないのか。
自分も年をとり、訃報で自分よりも年若い方を見かけるようになってきました。そうした訃報に接すると、より一層残念な気がしてなりません。ご冥福をお祈りするばかりです。
ただ、そうであるからこそ(変な接続詞ですが、これが実感)、生きている者は、できるのであれば前向きに、そして他者には寛容に、少なくとも他者にできるだけ害をなさないように心がけて、誠実に生きなければなりませんね。それが他者への礼儀のように感じています。
話は少し変わりますが、毎年、NHKの番組で「たなくじ」という籤を引いています。これは次々に切り替わる場面にスマホをかざして写真を撮るというもので、そこに映った画面でその年の運勢を占います。今年は「もち吉(粘り強い吉)」でした。その意味するところが今ひとつピンときませんが、まあ悪いことはあっても、全体として見れば吉なのだ(粘り強く何とか吉の状態が保たれるのだ)ということなのでしょうか。そうであれば悪くない。元日から自転車の変速ワイヤーが切れて、重いギアで坂を上るという苦行もありましたが、年末に落ちている釘を踏んで穴の空いた買ったばかりのタイヤは何とか復活できた。ちなみに去年は「卯(う)るとら大吉」でした。ただ、確かに大きな良いことはありましたが、それほど(ウルトラ)でもなかったような。あんなことも、こんなこともありましたし。まあ、有難味が分かっていないだけかも知れませんが。
とりあえず、今年も家族ともども健康に心がけ、平穏な一年を過ごせればと願っています。幸い、家族は全員今のところ元気で、そこそこ仲良く暮らせており、まあ、それが何よりです。
今年も宜しくお願い致します。