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法律コラム

2023年03月

ちゃんと役目を果たすこと

先日、妻が「Sさんの夢を見た」「どれだけ心の支えにしていたんだか」といったような話をしていました。
Sさんは、数年前に亡くなってしまわれましたが、その直前まで20数年もの長い間、某FM局でDJをされていた方で、その傍ら大学で英語の教員もされていました。バリトンボイスのすてきな声をお持ちの方で、亡くなられたとき、まだ60代前半でした。
Sさんは結構ご自分の考えをおっしゃる方で、社会や人生に対する思いを、時事ネタを絡めながらよくお話しされていました。正直、いささか教科書的過ぎるのではと感じる部分もなくはありませんでしたが、同感だと思うことも多く、とても良識的で信頼の置けそうな方のように感じていました。英語のコーナーが名物で、語学というものの奥深さの一端を味わうことができることから、私は毎日それを楽しみに聴いていました。また、ジャズがお好きで、よく古いスタンダードナンバーをかけておられたことも、私にとっては嬉しいことのひとつでした。
長らく朝の番組をやっておられた関係で、私はSさんのことを随分前から知っていました。特に車通勤をするようになってからは毎日のように番組を耳にしていたので、見ず知らずの他人なのに、Sさんのことを、まるで親戚か何かのように感じていました。Sさんが朝の番組をしていてくださることで、私は「ああ、ここにちゃんとした人がいる」「こういう人がいてくれて、社会はきちんと回っているんだ」という安心感を得ることができました。
それなのに、ある日突然体調不良とのことでお休みに入ってしまわれ、程なくしてお亡くなりになったというアナウンスがありました。余りに唐突だったので気持ちの整理がつかず混乱し、とても大きなショックを受けました。
Sさんの死は私にいくつかの教訓らしきものを遺していきました。
そのひとつは、人は与えられた守備位置にきちんと就き、そこでできるだけ前向きに努めを果たすべきだということでした。できるだけ言い訳せずに黙々と。
もうひとつは、当たり前のことではあるのですが、自分に対しても他人に対してもできるだけ誠実に努めるべきだということでした。多様な意見がありうる事柄について発言する際には、それが個人的な意見であると断ったうえで、決して物事を決めつけたり、自分の意見を押しつけたりしないこと。
そして何より、自分が辛くても、それを要らぬ人にまで伝えて無用に心配させたりしないこと。その強さを身につけること。
Sさんの生き方は、私にとって、ひとつのモデルケースとなり手本となりました。私は、自分が何かつらいときに、ふとSさんのことを思い出します。そして自分を鼓舞します。
Sさんが亡くなられた年、その年にあった最も悲しかったことのひとつとして、妻はSさんの死を挙げました。全くもって同感でした。似たもの夫婦ですね。

幸せな光景

大きな自転車の前と後ろに大きな子乗せをつけて四苦八苦しているお母さん。小さなお子さんを周りにウロチョロさせながら、ベビーカーを押しているお母さん。実際のお母さんの心中はさておき、「きっとお母さんにとって最も幸福な時期のひとつに違いない」と勝手に考えています。
仕事柄、離婚は身近で、色々な夫婦のパターンを見てきました。
世の中には、人格的に何か欠けているから離婚することになったんだという方もおられます。しかし、経験的に見る限り、婚姻関係の継続と人格の優劣とは直接的な(あるいは必然的な)関連性はなさそうです。不完全な人間同士の1対1の関係ですので、上手くいかないことも多々あって当然という気がします。合わないなら別れればいいというのも割り切った考え方ですが、その間に子どもがいる場合には、そう簡単にいかないこともあります。
余程のことがない限り、離婚や親権という選択それ自体に関して、私から率先して意見を申し上げることはありません。
ただ、例外というか、思わず口を挟んでしまうパターンがいくつかあります。ひとつは、お母さんがお子さんのことを手放そうとされているパターンです。滅多にないパターンですが、余程のことがあっての決断なのは明らかなので、本当は口を挟むべきではないと思いますが、思わず口を挟んでしまいます。もうひとつが、「ふた親揃っていたほうが子どものためだから」とお母さんが離婚を躊躇っておられるパターンです。でも、それだけなら私も口を挟んだりはしません。思わず口出ししてしまうのは、私から見ると酷い扱いを受けているにもかかわらず、子どものためと考えてお母さんが(無理に)離婚を思いとどまろうとしている場合です。そうした場合、私は「これは弁護士としてではなく、あくまで個人的な意見として申し上げるのですが…」と前置きをしたうえで、「必ずしも、そうした考え方に縛られる必要はないのではないか」ということを申し上げます。確かに、お子さんは片親で辛い思いをすることもあるかも知れないけれど、きちんと大切に育ててあげれば、そのことはきちんとお子さんには伝わるし、その方が不仲な両親のもとで育つより、かえって幸せなこともあるのではないかとお話しします。そう思うには私なりに理由があります。ときに離婚したお母さんが何か別に困りごとがあって相談に来られることがあります。そして、その際、ちょっと大きくなった(でも成人前の)男の子や女の子が、お母さんの応援団みたいな感じでくっついて来て、横から「そんなこと言ってたらアカン」「こうした方が良いって」みたいに熱心にサポートすることがあります。お母さんも何のかんの言ってもお子さんを頼りにしている様子が見て取れます。そんな光景を目にすると、「ああ、このお母さんは、お子さんを大切に育ててこられたんだな」と思います。それが分かっているから、お子さんもお母さんのことを大事に思って(「頼りないし、自分が助けなければ」と思って)ついて来て色々と口出しするのだろうと思います。そんな光景も見ているので思わず口出ししてしまうわけです。
小さなお子さん連れのお母さんを見て、その近くにお父さんらしき人の姿がないと、「仕事なのかな」と思ったり、「離婚してシングルなのかも」と思ったりします。あるいは、最初から一人で育てようと思って出産されたのかも知れません。そのいずれであっても幸せな光景に違いはありません。いずれにせよお子さんがすくすく育つと良いなと思います。他人事なのに不思議なものですね。

普段は意識しないけど大切なこと

コロナになって数年経ちます。最初のころは、それまで「当たり前」に感じていたことが、もろくも崩れてしまった思いがして、何とも言えない気持ちになりました。
ある意味で意外だったのは、そんな状況で自分が最も強く求めたものが「音楽」や「絵画」や「本」であったということでした。もっと、現実的に役に立つ何かではなくて。それらに特に造形が深いわけでもないのに。そして、何よりも嬉しかったのは、そう感じているのが自分だけではなく、社会の多くの人が同じように感じているようだという事実でした。
そんな気持ちを抱えて、私は、時間があったらまとめて聴きたいと思っていたミュージシャンのCDを買い集めて系統立てて聴いたり、少しずつ営業を再開した都市部のレコードショップに足を運んでは気になっていたアナログ・レコードを買い集めてじっくり聴いたりするようになりました。以前よりも少し丁寧に音楽と接するようになりました。
ときに、「文系はすぐ役に立たない。即戦力にならない。理系の重要性をきちんと認識して、そちらに予算を回すべきだ」というような社会の声が聞こえてくることがあります。そのような議論の場における「文系」や「理系」という言葉が一体何を指しているか、正直、よく分からないところはありますが、そういった意見を聞く度に、「いや、そんな単純なことではないはずだ」と私は感じてきました。「単純な利便性の問題に還元できないからこそ、そこには本当に重要な何かが含まれているはずだ」「そこから学べること(得られること)の重要性において、決して、理系に引けをとらないはずだ」と反発する気持ちがありました。そして、コロナを経験した今、その思いはより強くなったように感じています。
以前、村上春樹さんが何かのエッセイで「自分は、物語を作ることで、暗い森の中で(邪悪な何かと)闘っているんだ」というようなことを書かれていました。それを読んだとき、私は、その文脈もあって、独善的で排他的なもの、単純であるが故にとても力強くて攻撃的なもの、そうしたものに対抗できるイメージを持てるように、村上さんは物語という枠組みを使って我々読者に働きかけているのだと理解しました。私はそのとき「正にその通りだ」と思いました。それも物語の持つ重要なひとつの側面なのだと。
読書にせよ、音楽鑑賞にせよ、美術鑑賞にせよ、それらは簡単に言葉では説明のできない大切な体験をさせてくれます。それは何かと比較して単純に優劣を論ずることの難しい事柄であるように感じられます。ただ何となく分かるのは、それが自分にとってとても重要なものであり、コロナのような状況に陥ったとき、自分を助けてくれる何かなのだということです。生きる滋養となる何かと言えばよいのかも知れません。
そうしたものであるからこそ、困難な状況となって人々はそれを求めたのでしょうし、人は営々と物語を紡ぎ、音楽を奏でてきたのではないでしょうか。

「悪い人なのに何故弁護するんですか?」

たまに聞かれることのある質問です。「きっと、お金のためなんでしょ」というところで、何となく皆さん納得されているのではないでしょうか。でも、本当はそうしたことではないと思います。現在の刑事事件の報酬は決して高額なものではありません。
では、何故、弁護士は、お金のためでもないのに、皆からある意味では蔑まれるような仕事(「悪い人」の弁護)をするのか?
私の理解では、そうなっているのは過去の反省によるものであり歴史の産物です。
過去には、捜査する人間(時に裁判官)が色々と調べて「こいつは悪い奴に違いない」と判断し、いわば正義感のようなものも手伝って拷問のようなことまでして白黒つけていく、それが正当化されるという時代がありました。そこには「どうせこいつの言っていることは嘘だろうから相手にしない」とか「こんな奴には味方はいらない」といった態度も見受けられました。そうして言い分もきちんと聞かずに(無理矢理)自白させて、それを根拠に今度は有罪にしてしまうといった事例も後を絶たず、その結果として、無罪の人が誤って有罪になってしまうという悲劇も起きました。そんなやり方には眉をひそめる人も相当数いました。そうした態度が最も顕著だったのが第二次大戦中ではなかったかと思われます。
それで戦後、その反省も踏まえて、疑われている側の人も、きちんと自分の言い分を言うことができるようにしよう、そのうえで、公正なルールに則って判断するようにしようということになりました。その方が、最終的に出てくる結論も説得力が増して、制度としても信頼されるだろうということもありました。そうして、誤判をできる限り防いで、刑事事件処理の制度としての信頼性も担保するため、その最も効果的な方策のひとつとして、もしかしたら「悪い人」かも知れないが、そのサポートのために弁護士を付けようということになりました。弁護士を付けて、言い分もきちんと言えるようにしよう、きちんと決められたルールが守られているかチェックしよう、そのようにして社会に信頼される公正な裁判を実現しようということになりました。それで「悪い人」にも弁護士が付くことになったわけです。
その意味では、弁護士は、本来的にとても損な役割を引き受けさせられたと言えるかも知れません。「無実の人を救う」という側面を除けば、とてもわかりにくい立場であり、周囲の理解を得ることは容易ではありません。ときに「お金目当て」という非難まで受けかねません。
しかも、現実の事件はきれい事では済みません。そこには様々な苦労があります。被疑者・被告人の中には、対応が非常に困難な人もいますし、無茶を言う人もいます。そのため口論になったり、身の危険を感じることもあります。そういう意味では割に合いません。
では、弁護士は嫌々やっているのかと言えば、私はそうではないと思います。多くの弁護士は、自分たちがきちんと適切に役割を果たすことで、無罪の人が有罪にならずに済んでいるのだ、そして、この民主的な社会の基盤が適切に保たれているのだという思いで、大きなやり甲斐をもって、その役目を果たしているように見受けられます。
弁護士は、他の立場では出来ない重要な形で社会に貢献している思いで「悪い人」の弁護をしているのです。
それって、すごく価値のあることだと思いませんか?
これが、上記のご質問に対する私なりの回答です。

音楽はお好きですか?

今回は仕事を離れて趣味の話を。
タイトルからしてバレバレですが、私は音楽を聴くことがとても好きです。
若いころは、その時々の流行りのものを聴いていましたが、30歳を過ぎたころからJAZZを熱心に聴くようになりました。きっかけは割とはっきりしていて、村上春樹さんが書かれた「Portrait In Jazz」という本です。この本は和田誠さんの挿絵(ミュージシャンのポートレイト)に村上さんが、そのミュージシャンにまつわる文書を添えるといった趣向のもので、最初に読んだのはまだ結婚する前でした。それから何度も繰り返し読んで、私は「音楽を聴くということは、こんなにいろんな感情を味わうことのできることなんだ」という新鮮な驚きを感じました。その片鱗でも味わいたいと思うようになりました。それである時意を決してガイドブックを手ががりに、手当たり次第にJAZZのCDを買い漁っては聴くようになりました。
不慣れなジャンルの音楽なので、最初は全く良さが分かりませんでした。一体、何をしているのか、どこがすばらしいのか、最初はほとんど何も理解できませんでした。でも、しつこく聞き続けるうち、少しずつその魅力が分かるようになっていきました。そして気がつくと夢中になっていました。
ただ、村上さんが感じておられるほどには、鮮やかな感動を味わったり、多くのことを感じたりすることは、(まだ)できずにいます。それは、感受性や鑑賞力の問題であって、それだけものが自分には(少なくとも現時点では)備わっていないのだと理解しています。
それでも、JAZZを一生懸命聴くようになって、それまでとは異なる気持ちを味わうことができるようになり、それによって人生が豊かになったと感じています。単純に、格好良いなとか、すごく綺麗だなとか、気持ちよく演奏してるなとか、分かりやすい印象を抱くこともあれば、ときに言葉では上手く説明できない思いになることもあります。それは、あえて言うなら、困難ではあるが前向きに頑張ろうというような励ましのようなものであったり、「それで良いのだ」という他者からの承認(による安堵)のようなものです。歌詞があれば言葉に託していけるのですが、JAZZはボーカル抜きの器楽のものが多いのに、それでも実に色んなことを感じさせてくれます。ときに感情を揺さぶられます。すごいことだなと思います。
また、そうした体験を通じて、私は、簡単に評価を決めてしまわないことの大切さにも改めて気づかされました。そして、何かを評価することは、同時に、自らの力量をもあからさまにしてしまうことなのだということも。「こんなもの、つまらない」「あんな考え方はくだらない」と言うことは、もしかしたら、そのすばらしさや妥当性を理解できるだけの素養や能力を欠くことを、対外的に露呈しているに過ぎないのかも知れない。
JAZZが好きになると音楽全般に敬意や興味を抱くようになり、結構いろんなジャンルの音楽を聴いてみましたが、何故かJAZZほど夢中になれずにいます。きっと相性があるんですね。

法律相談の注意点

今回は「法律相談」についての、ちょっとした注意点をお話ししようと思います。今回は箇条書きで行きます。
(1)ご自分や相手さんの名前等は、予約の際に正直に教えて下さい。
弁護士は、以前にご相談を受けた方を相手方とするような相談には応じられないという職業倫理があります。例えば、ご夫婦が離婚問題で揉めているとして、夫から相談を受けた弁護士は、たとえ依頼を受けなかったとしても、後日、その妻から相談を受けることはできません。ですので、予約のご連絡を頂いた際、弁護士は、ご自身と、紛争の相手方のお名前等をきちんと確認しなければなりません。ただ、たまに「相談するまで言いたくない」という方がおられて、ちょっと困ってしまいます。守秘義務があるので、お聞きしたことは他には漏らしません。予約の際には、ご自分や相手さんの名前等をきちんと正直に教えて下さい。
(2)相談前に相談内容を頭の中で整理してきて下さい(可能なら箇条書きでも良いので文書にまとめて整理してみて下さい)。
迷って弁護士に相談しようと思われる案件ですので、その内容は込み入ったものが少なくありません。複雑過ぎてご自分でも、なかなか上手く理解できていないこともあります。ただ、その状態のままで相談に来られますと、ご自身でもどこからどう話してよいか分からず混乱してしまい、当然、聞いている我々もお話しのポイントが理解しづらくて、なかなか相談がスムーズに進みません。限られた相談時間が無駄になってしまいます。ですので、できれば事前にご自身の頭の中で事実関係や問題点を整理して来て下さい。簡単にでも良いので、書面にまとめられればよりベターです。それによってご自身の中でも整理ができますし、相談も中身の濃いものにできます。なお、目の前の弁護士は、あなたや、あなたの悩まれている件について、まっさらで、全然何も知らないのだということを、くれぐれも忘れないようにして下さい。たまに前提をすっ飛ばしてお話しになる方がおられますので。
(3)事前にお調べになった情報にとらわれないで下さい。
インターネットが発達した結果、「こんなものまで」という情報が得られるようになりました。几帳面に綿密に下調べをして相談に来られる方がありますが、事前にお調べになった情報にとらわれるあまりに、こちらの話をなかなか信用して頂けないという矛盾した状態も生じています。「先生はそんなことを言うが、○○にはこう書いてあった」「○○だけでなく、△△にもそう書いてあった」といったような類いのことです。ただ、インターネットの情報は、内容が不正確なものが少なくありません。ある意味「嘘ではない」ものの、とても例外的なケースを、あたかも原則であるかのような書き方をして、読んでいる方にあらぬ誤解(期待)を抱かせるものもあります。実現可能性の低いものを、あたかも実現できるかのように誤解を与えるものもあります。法律事務所のホームページも例外ではありません。そうした事前の情報と比べると、目の前の弁護士は、正にあなたのケースについて、あなた自身から直接事情を伺って、いわばオーダーメイドでアドバイスをしています。経験等も付加したアドバイスをしています。そもそも力量が備わっていないのは論外ですが、少なくとも、そうでないようなら、目の前の弁護士の話に率直に耳を傾けても決して損はないと思います。

よくあるご質問-弁護士の専門性について

今回は、よく受ける質問のひとつとして、弁護士・法律事務所の「専門性」についてお話ししたいと思います。
よく「何を専門にされてますか」(あるいは「○○を専門的に取り扱っておられますか」)というご質問なりお問い合わせを頂くことがあります。いつも何と答えようかと迷ったすえ、結局、「特に専門的に取り扱っていることはありません」とお答えしています。
今回は、何故、迷いつつそのようにお答えしているのか、その率直なところをお話ししようと思います。
私の理解では、「専門的」に取り扱っている(あるいは「これが専門です」)と言えるためには、(A1)その分野が、他の弁護士なり法律事務所なりが余り手がけていない個性的で専門的なものであること、あるいは、(A2)一般的な分野ではあれ、その分野に他の弁護士よりも明らかに知悉している(習熟している)こと、そしてこれに加えて(B)その分野の仕事が、業務のうえで相当の比重を占めていることが必要であるように思われます。
(A1)について言うと、例えば医療過誤や知的財産権、渉外(外国)絡みのもの、税務関係の案件などがそうした分野として挙げられると思います。企業の法務問題も一部ここに含めて良いと思います。ただ、こうしたある程度レアな案件を相応の比重をもって手がけるということになると、必然的に都市部の弁護士なり法律事務所なりということになりがちです(田舎にもおられなくはありませんが)。私は要件を充たしませんので、(A1)の意味で専門的に取り扱っている弁護士ということにはなりません。
では(A2)はどうか。例えば、離婚や相続、お金の貸し借り、借金の処理、相隣関係(お隣さんとのもめ事)、損害賠償問題、不動産問題といったような一般的な分野のものは、私もそれなりの数を取り扱ってきましたし、(B)の意味でも、その比重はある程度に達していますので、あつかましく言うなら、それが専門ですと言っても、あながち嘘ではないのかも知れません。ただ、これらの分野は非常に一般的である分、どの弁護士もある程度の数をこなしていて、スキルを備えています。その結果、ある程度きちんとした能力を備えている弁護士は決して少数派ではありません(そんなに多数派でもないと思いますが)。そこを掻き分けて、「自分は専門的に取り扱っているのだ」(他の弁護士や法律事務所よりも余程精通しているのだ)と言うことは、正直、私には憚られます。そこまで言い切る自信はありません。と言うわけで、「経験はあるし、水準的な能力は備えているはずだ」といういささかの自負はありつつ、やはり(A2)の意味でも、専門的に取り扱っているとは言いにくいのです。
そうして、結局、「特に専門的に取り扱っていることはありません」とお答えすることになるわけです。
この自己PRがもてはやされる時代にあって、「何を甘えたことを」「後ろ向きな」とお叱りを受けるかも知れませんが、これが実態です。ただ、最近では、明らかに「なったばかり」の弁護士が、臆面も無く「得意分野」とか「専門分野」とか言っているのを見かけることがあり、それに比べれば「正直なだけまだマシだ」と自分では思っています。

好きなこと/嫌い(苦手)なこと

私という人間について、少しお話ししたいと思います。とは言っても、あまり個人的なことは何ですので、まあ、大体こんな感じの人間なのだという程度の話です。
好きなことは何かと言うと、音楽を聴いたり、休日に家族と一緒にのんびりと過ごしたりすることです。基本的にはインドア派ですが、体を動かすことも好きです。40歳を過ぎてからジョギングを始め、しばらくしつこくやっていました。今はロードバイク(アルミフレームのエントリーグレードのもの)にしつこく乗っています。一人で黙々とやることが向いているようで、やり方もいささか生真面目というのが家族の評です。CDも沢山買い集めてしまいました。アナログ・レコードにまで最近は手を出しています。お酒も以前は楽しく飲んでいたのですが、今(2022年10月現在)は控えています。別に体を悪くした訳ではありませんが、何となく飲まなくなり、家族のプレッシャーもあって飲まない日が続いています。
苦手なのは、初対面の人と雑談することや、会議で積極的に発言することです。もともと社交的とは言いがたい性格ですし、人前で何か目立つことをすることは苦手な部類です。やれと言われれば、それなりにやれるとは思いますが。
では、得意なものは何かと考えたのですが、なかなか出てきません。ただ、良く言えば粘り強い性格ではあり、しつこく物事を追求するタイプです。あれこれ、あれこれと考え、どうやって物事を進めるのが良いかと考えます。(そんな自分が好きかどうかはともかく)それは得意なことなのかも知れません。基本的にかなりの負けず嫌いなので、人に馬鹿にされまい、簡単には負けまいとしつこく考えるのだと思います。そのおかげか、幸いにして、今のところ「ああ、予想外のぼろ負けだ」といった絶望は味わっておらず、「ほぼ予想通り」といったところで収まっています。と言うか、負ける勝負は最初からしないタイプです。
書いてて何だか矛盾しているところもありそうですが、ありのままを申し上げると、こんな人間です。

弁護士という仕事について

「弁護士」というと、皆さんはどんな人を想像されるでしょうか。
ドラマなどでは、都会で働くパリッとしたエリートっぽい人(いかにも裕福そう)に描かれていたり、それとは対照的に、地道で泥臭い人物像にされていたりします。前者の弁護士は、屁理屈をひねくり回して素人を煙に巻いたり、お金儲けに血道を上げていたりといった感じにされていたりもします。
では実際のところはどうなのか。
私も狭い範囲しか知りませんので、正確には何とも言いがたいところですが、どちらもいそうな人物です。そうした人物像を含んで、非常に多種多様な人たちがやっているのが弁護士という職業と感じます。やっている仕事も様々なら、そのやり方も人それぞれで、信条も人によりかなりの違いがありそうです。能力も人により様々なように思われます。
私はどうかと言うと、まあ、田舎にいる平均的な弁護士ではないかと思います(謙遜も誇張もなく)。個人的には、目の前の仕事をできるだけ手を抜かず丁寧に,そして、自らの良心に恥じないようにと心がけて仕事をしているつもりですが、特に大きな理想を掲げて仕事をしているわけではありません。
弁護士の中には、社会正義というものをとても重く見て、経済的利益をあまり顧みずに、きつい種類の事件を熱心に扱っている人がおり、同業として深く尊敬します。
そうした人を含めて優れた弁護士は田舎にもたくさんいます。「田舎よりも都会の弁護士の方が優秀だから」というようなお話しを聞くことがありますが、正直、とても違和感があります。働いている環境ではなくて、個々人の資質や矜持の問題だと思います。京都や大阪ではなく、まずは地元の身近な弁護士に相談してみて下さい。特に専門的なジャンルのものでない限り、取り扱っている事件の種類や力量に差はありません。
そして、目の前の弁護士が信頼できそうかどうかで、依頼するかどうか決めれば良いと思います。それが何よりも重要です。専門性云々よりも。

コラム始めます。

この度ホームページを11年ぶりにリニューアルすることになり、お世話になった業者さんの勧めもあって、コラムを書くことにしました。
最初ですので、まず、自己紹介から始めます。
私は、生まれこそ大阪ですが、小学校低学年からほぼずっと滋賀で生活してきました。父は公務員、母は専業主婦で、年の離れた姉が2人います。末っ子長男です。
地元の高校を卒業して大学に入りましたが、自堕落な生活を送るだけではいけないと思って、法学部に進んだこともあって司法試験の勉強を始めました。ただ、案の定簡単にはいかず、大学6回生でようやく合格することができました。そして、2年間、司法修習生(見習い)をして過ごしました。
最初は裁判官も考えたのですが、結局、検事になりました。就職と同時に、高校時代からの付き合いの彼女と結婚しました。
その後、東京地方検察庁(数ヶ月)、神戸地方検察庁(9ケ月)、高知地方検察庁(2年)と転勤して、最後は大阪地方検察庁で検事を辞めました。検事としての適性というか、仕事に関して色々と悩みが出てきて、辞めようと決めました。
そうして、司法修習の際にお世話になった先生を頼って滋賀に戻って、彦根の法律事務所で弁護士として働くようになりました。2年目からはパートナー(共同経営者)となり、結局、9年間彦根で働きました。そして、縁あって東近江市で独立することに決め、現在の事務所を構えて現在に至ります。今でも開業時と同じく、弁護士1名、事務員1名の小所帯です。
家族は、妻と長男との3人家族です。妻は教育関係の仕事をしており、長男は学生です。
弁護士1名の事務所で、自分のペースで仕事をしており、世間の方がご想像されるような弁護士像とはかなりのズレがあると思います。実像は、バリッとしたエリートからほど遠い至って平凡なものです。ただ、自分では、それなりに満足して日々を過ごしています。
趣味は、音楽を聴くことと体を動かすことです。残念ながら、これといった特技はありません。